Krakow クラクフ
 
ヨーロッパではとにかく金銭的に苦労していた私たちではあったが、ここを見ずしてヨーロッパを出ることは出来ない! ということで、トルコからなぜかベルリン経由でクラクフまでやってきた。それにしても寒い。6月だというのに寒すぎる。みぞれが降っている中で見るアウシュビッツはその当時を思い出させるような雰囲気をかもし出していました。
 
 
     
  「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)。囚人たちによって作られたこの門は、囚人たちのささやかな抵抗の証として「B」の文字が逆さまに取り付けられていることで有名。   棟毎に鉄条網が張り巡らされている。  
         
     
  チクロンBという毒薬の缶の山。6,7kgで約1500人を殺すことが出来るそうで、これを使った集団虐殺が行われたこともあったらしい。収容所の開放後に発見された缶の山の中には中身の入った間もあったという。この缶の山を目の前にすると、背筋がぞくっとするものがある。   ケースに顔を近づけるのもためらわれてしまう。  
         
     
  収容所に送られてきた人々が持参したトランクの山。それぞれに名前と住所が書いてある。これらの人々はみな東ヨーロッパに移住させられるだけと聞いて自分たちの大事な荷物をこのトランクに詰めてやってきたという。   フロアの壁には収容所に送られた人々が撮られた写真が並ぶ。写真から読み取れる表情は特に怯えた雰囲気もなく、むしろ穏やかで、どんな思いで写真を撮られていたのだろうと想像してみる。  
         
     
  このレンガの仕切りは囚人たちのベッドであり、1段のベッドに2人の囚人が寝かされていたそうで、唯一の安息の場である住居環境も最悪であった。当然防寒設備もなく、薄い囚人服一枚と劣悪な衛生状態もあり、伝染病が蔓延していたとも言う。私たちが訪れたときは6月だったにも関わらず、マフラーをしないと耐えられないほどの寒さだった。こういった環境を囚人たちに強要する人間の気持ちを生み出すものとはいったい何なのだろう。   「死の壁」といわれる銃殺の場。約数千人の囚人たち(主にポーランド人)が殺されたという。  
         
     
  死の壁を望むことが出来る建物の窓には、囚人たちに死刑執行を見られないために木の板が打ち付けられていた。   収容所から隔離された収容所内の刑務所である第11ブロック。写真は地下の施設だが、当時の冷たい雰囲気はそのまま残っていた。90×90四方の立ち牢では一度に4人の囚人たちが収容されていたという。  
         
     
  こういった看板すべて当時のまま残されている。この施設の周りには常に重苦しい空気が流れていた。   囚人たちが最後に送られる場所、焼却炉。次々と運ばれている囚人の死体を焼き続ける作業はとても人間の心を持ったままで出来る行為ではないだろう。  
         
     
  この地はヨーロッパ各地から連れられた約150万人のユダヤ人がここでナチスによって殺された地であり、永遠に人類への警告の地とする。みたいなことが書かれてあった。この時代には人間ではなく、人間の姿をした悪魔が世界に闊歩していたのであろう。   永遠と続く収容所施設と鉄条網。この光景に血塗られた歴史を思うと、どんな言葉を発するのもためらわれてしまう。  
         
       
  収容所への引込み線。新しい住居を与えられると信じてやってきたユダヤ人たちの終着駅であったこの建物を前に、言葉もなく立ち尽くしてしまった。      
         
         


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